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2022年10月29日
坂出フィールドワーク10/29 記録
【坂出フィールドワーク10/29 記録】
坂出は、年代によって見えているものがちがう街だ。
1889(明22)大久保諶之丞が瀬戸大橋架橋を提案してから70年余、1958(昭33)調査委員会が設置される。1970年代にはいり、坂出のみなさんへの説明会がはじまり、1978年(昭53)いよいよ着工となる。
それから10年後の1988年(昭63)、瀬戸大橋完成。
つまり、もはや戦後ではないと言われた高度成長期から昭和の終わりにかけて瀬戸大橋は出来上がった。
1970年頃から完成までには、特に多くのひとたちが坂出に暮らし、この街を行き交った。
今日、一緒に歩いてもらった 山地のお兄さんは1970年代生まれ。子どもの頃から青春期まで瀬戸大橋建設とリンクする。昭和の坂出中心市街地が賑わっていた頃を知るひとだ。
坂出市役所前 #ランドスケープコーヒー37 を出て南へ。
#喫茶アリス は当時からあり、この隣にヤマハ音楽教室があってたくさんのひとが通っていた。


アリスは、今も賑わっていて、今日もおばちゃんたちの明るい笑い声が聞こえていた。
いま、坂出駅前のイオンになっている商業施設は、昔は #ニチイ。もっとこじんまりしたビルが、商店街と並び駅前から細長く建っていた。
このあたり(本街道)にもアーケードがかかっていたそう。
ニチイの1階には、#吉田ベーカリー のドーナッツマシンが次々とドーナッツを作っているのが見えたそうで、そんなん見たら子どもは買わずにはいられないね。

#しんすい園 もニチイの中にもあって、あの中華そばの味をここで知ったひとも多い。

#サザンクロス、まだやってるのかな?とお兄さんがいうので、「やっているよ、坂出ガールたちにすすめられた」と話すと、サザンクロスも相当な老舗だと教えてもらう。

このあたりは、今も残るお店もあるが、場所が変わっていたりするらしいので、商業施設やアーケード撤去で街の形が変わったのかもしれないね。
元町商店街の入口の #洋館 がなくなったのは残念と話しながら元町へ。住宅地図の欠片をみながら進む。
今は駐車場になっている #松尾医院 のとなりにファンキー末吉さんの実家である中華料理屋さんがあり、子どもの頃、よく連れて行ってもらったそう。
松尾医院を挟んで、あずまのおもちゃ屋、キタハマフルーツ。坂出の商店街は、いま22軒と聞くけど果物屋さんが多い。やはり、ブランドみかんの産地だからかな?


PRkagawaの坂出の地図にも描かれていた、子ども服の看板絵はお兄さんの記憶にも強くのこっているとのこと。この看板の子たち、いまも古びないおしゃれさんなんだよ。

ますやの隣やあが徳裏の映画館のことは覚えているが、そのもっと昔は、映画館は夜の繁華街のほうにあったとのこと。映画という娯楽が、おとなのものからファミリーのものになったってことね。
土曜デーのことはよく覚えていて、市のような出店もあったが、むしろ、それぞれのお店が店前に出張って夜も店をあけていた。とにかくたくさんのひとがでて、すごい賑わいだったそう。
商店街あげての夏のロングランイベントは、だったんだな。
お兄さんの同級生たちのお店は、いまも残る店が多い。ちょうど、その世代が店を継ぐ頃になっているのね。
#ダリア洋装店、化粧品の #いづつや は、コロナ規制も緩和されたからか、奥さんたちが楽しげに談話していた。


何度か坂出を歩いたけど、きょうが一番、楽しそうにしている声をきいた。沈んだ雰囲気だったのは、コロナ自粛のせいでもあるな。
サンロード商店街から西に入る。#スナック志磨 の看板に「志磨まだあるやん」とお兄さん。


この通りも昔はアーケードがかかっていたそうで、夜のお店がたくさんはいった商業ビルもあって賑わっていたそうだけど、いまは更地になっている。
このあたりや #やっ古 あたりは、一度、日が暮れてからゆっくり歩いてみたいね。
本町通りの 砂糖問屋 高須商会が開いていた。なんだか嬉しいなぁ。

塾に通ったり、友だちの家にいったり、学校にかよったり、日常にあった商店街の今をみてどう思う?と聞くと、完全に違う街にきたようだと言われた。

帰り道、#坂出人工土地 に寄る。お兄さんの友だちで、ここに住んでいたひともいて、遊びにきていたそうで、当時とほぼ変わらない状態で残っているそう。


ここの写真をアップすると、若い子たちがかっこいい住みたいっていうんだよと話しながら、しかしこの階段は年をとるとしんどいねといい合う私たち(笑)










坂出は、年代によって見えているものがちがう街だ。
1889(明22)大久保諶之丞が瀬戸大橋架橋を提案してから70年余、1958(昭33)調査委員会が設置される。1970年代にはいり、坂出のみなさんへの説明会がはじまり、1978年(昭53)いよいよ着工となる。
それから10年後の1988年(昭63)、瀬戸大橋完成。
つまり、もはや戦後ではないと言われた高度成長期から昭和の終わりにかけて瀬戸大橋は出来上がった。
1970年頃から完成までには、特に多くのひとたちが坂出に暮らし、この街を行き交った。
今日、一緒に歩いてもらった 山地のお兄さんは1970年代生まれ。子どもの頃から青春期まで瀬戸大橋建設とリンクする。昭和の坂出中心市街地が賑わっていた頃を知るひとだ。
坂出市役所前 #ランドスケープコーヒー37 を出て南へ。
#喫茶アリス は当時からあり、この隣にヤマハ音楽教室があってたくさんのひとが通っていた。


アリスは、今も賑わっていて、今日もおばちゃんたちの明るい笑い声が聞こえていた。
いま、坂出駅前のイオンになっている商業施設は、昔は #ニチイ。もっとこじんまりしたビルが、商店街と並び駅前から細長く建っていた。
このあたり(本街道)にもアーケードがかかっていたそう。
ニチイの1階には、#吉田ベーカリー のドーナッツマシンが次々とドーナッツを作っているのが見えたそうで、そんなん見たら子どもは買わずにはいられないね。

#しんすい園 もニチイの中にもあって、あの中華そばの味をここで知ったひとも多い。

#サザンクロス、まだやってるのかな?とお兄さんがいうので、「やっているよ、坂出ガールたちにすすめられた」と話すと、サザンクロスも相当な老舗だと教えてもらう。

このあたりは、今も残るお店もあるが、場所が変わっていたりするらしいので、商業施設やアーケード撤去で街の形が変わったのかもしれないね。
元町商店街の入口の #洋館 がなくなったのは残念と話しながら元町へ。住宅地図の欠片をみながら進む。
今は駐車場になっている #松尾医院 のとなりにファンキー末吉さんの実家である中華料理屋さんがあり、子どもの頃、よく連れて行ってもらったそう。
松尾医院を挟んで、あずまのおもちゃ屋、キタハマフルーツ。坂出の商店街は、いま22軒と聞くけど果物屋さんが多い。やはり、ブランドみかんの産地だからかな?


PRkagawaの坂出の地図にも描かれていた、子ども服の看板絵はお兄さんの記憶にも強くのこっているとのこと。この看板の子たち、いまも古びないおしゃれさんなんだよ。

ますやの隣やあが徳裏の映画館のことは覚えているが、そのもっと昔は、映画館は夜の繁華街のほうにあったとのこと。映画という娯楽が、おとなのものからファミリーのものになったってことね。
土曜デーのことはよく覚えていて、市のような出店もあったが、むしろ、それぞれのお店が店前に出張って夜も店をあけていた。とにかくたくさんのひとがでて、すごい賑わいだったそう。
商店街あげての夏のロングランイベントは、だったんだな。
お兄さんの同級生たちのお店は、いまも残る店が多い。ちょうど、その世代が店を継ぐ頃になっているのね。
#ダリア洋装店、化粧品の #いづつや は、コロナ規制も緩和されたからか、奥さんたちが楽しげに談話していた。


何度か坂出を歩いたけど、きょうが一番、楽しそうにしている声をきいた。沈んだ雰囲気だったのは、コロナ自粛のせいでもあるな。
サンロード商店街から西に入る。#スナック志磨 の看板に「志磨まだあるやん」とお兄さん。


この通りも昔はアーケードがかかっていたそうで、夜のお店がたくさんはいった商業ビルもあって賑わっていたそうだけど、いまは更地になっている。
このあたりや #やっ古 あたりは、一度、日が暮れてからゆっくり歩いてみたいね。
本町通りの 砂糖問屋 高須商会が開いていた。なんだか嬉しいなぁ。

塾に通ったり、友だちの家にいったり、学校にかよったり、日常にあった商店街の今をみてどう思う?と聞くと、完全に違う街にきたようだと言われた。

帰り道、#坂出人工土地 に寄る。お兄さんの友だちで、ここに住んでいたひともいて、遊びにきていたそうで、当時とほぼ変わらない状態で残っているそう。


ここの写真をアップすると、若い子たちがかっこいい住みたいっていうんだよと話しながら、しかしこの階段は年をとるとしんどいねといい合う私たち(笑)










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